江戸の徳養寺 Part 2 ~フィールドワーク編~

開基早々、二度の移転を余儀なくされるという憂き目にあった江戸の徳養寺。(⇒ 江戸の徳養寺 Part1~歴史編)流れ着いた先の麻布ではどうだったのでしょう。古地図から徳養寺のあった場所が分かった為、このブログを編集している若院と若坊守の2人が、2011年初秋にその跡地を訪ねた記録をここでご紹介します。

まず…前回の記事の最後の写真では墓地を歩く若院の後ろ姿があり、読者の皆様の中には、そうか…他のお寺についに乗っ取られたのか?!😰 とご推察される方もおられたかもしれません…。RIMG1608隣の墓地の急斜面

残念ながら(⁈)そのようなドラマチックな話ではなく、じつは歩く先の崖上に見える瀟洒な佇まいのマンションがまさしく在りし日の徳養寺の現在の姿なのでした!!(涙)😱   (合掌)それはまさしく、図書館で史料を読み解いて、自坊のふるさと(⁈)の場所が特定出来たときの「感動」が「心のざわつき(笑)」に変わった瞬間でした。 写真の墓地は、江戸時代からのお隣さんの浄土宗S寺様の墓地で、そのご住職は突然の来訪にも関わらず親切にご対応いただき、我々を案内くださったのです。

RIMG1594江戸の徳養寺

RIMG1606 (2)
S寺様の墓地より左側マンション側を臨む。崖のような段差があります

江戸時代の史料で徳養寺のあった麻布本村町とは、現在の港区南麻布三丁目あたりを指します。高級住宅街として名高い麻布は坂が多い地域です。写真でもわかるように、マンションの立つ土地と隣のお寺との境界にはかなりの高低差があり、崖のようになっています。また、古地図で見るとちょうど徳養寺の敷地であったところいっぱいにマンションが建っているように思えます。おそらく自然の起伏がそのまま土地の境界となったのでしょう。史料によると、徳養寺の寺領は660坪ほどで、その中に境内335坪と他に年貢地持添とあり、本堂と庫裡が隣り合わせにあったようです。

麻布周辺はかなり古くから続くお寺(それも多くの宗派)が数多くあります。その中で、なぜ、そしていつ麻布の徳養寺は寺号及びこの地を手放すことになったのか…。今後、時代背景や社会背景を読み解く必要がありそうです。

以上のように、布教活動の地を福岡県の八幡へ移した詳しい経緯は明らかではありませんが、明治40(1907)年に東京府および福岡県から許可を得て、江田常照が徳養寺の寺号を引き継ぎ、八幡の徳養寺の初代住職となりました。徳養寺はその後110年間、この八幡の地に根を下ろし現在に至っています。

明治時代、官営八幡製鉄所の発展を機に新たに開かれた東京にゆかりのある北九州のお寺の末裔が、自坊のルーツを訪ね歩いているという我々の説明を聞いて、S寺様ご住職は、「昔そのようなお寺が隣にあったと伝え聞いてはいるが、はっきりしたことはわからない。」とのことでした。こうして江戸の徳養寺の足跡をたどるフィールドワークはあっけなく終わり、麻布の跡地には現在、豪華なマンションが建ち、お寺があった面影は全く残っていないということは判明しました。😌…

さいごに、都立中央図書館ではいくつかの史料を発見し、麻布時代の徳養寺の図面も見ることができましたのでご参考までに一部ご紹介します。

170330_麻布徳養寺敷地図(圧縮)
図面左上から徳養寺を見た場合に、上の写真の隣のS寺様敷地との境界の光景と重なるように見えます
RIMG1595徳養寺跡地に立つマンション
マンション入口より。図面同様に間口が狭く、奥行がかなり広い土地のようです

今後も、機会あるごとに史料収集を試み、自坊の歴史を紹介していきたいと思います。また新しいことがわかった時には皆様にご報告しますので、よろしくお願いします。

広告